夜空に泳ぐチョコレートグラミー
町田そのこ
夏休みに入るちょっと前、近松晴子が孵化した。
晴子はこぢんまりとした、とても大人しい子だ。真っ黒なヘルメットのようなおかっぱ頭で、顔はどことなくリスに似ている。声を上げてはしゃぐことはないし、授業で発言することも滅多にない。喋っても、口をほとんど動かさずにそうっと声を出す。俺は小学校のときから晴子のことを知っているけど、どんな声だったか思い出すまでに少し時間がかかってしまう。
そんな晴子だけど、あの日はちょうかっこよく俺の目を奪った。正しいいじめの回避として、晴子のは間違いなく正解のひとつだった。
高慢ちきな田岡の心はバッキリと折れたし、もう二度と晴子の家族を馬鹿にできない。あれ以降、田岡のクラス内の位置、田岡流に言えばカーストは一番下に急降下した。それはそうだ。中学校一年生にもなって教室内でおもらし、しかもそれが自分より一回り以上体の小さな女子のせいでなんて、どうしようもなくダサい。
夏休みに突入してから、何度もあのときのことを思い出しては、俺はひとりでこっそり笑っている。宿題をやっているときとか、風呂に浸かっているときとか。
そして、この休み限定で始めた、新聞配達のバイト中とか。
子どもがお金を稼ごうと思ったら、とてつもなく大変だ。俺は中学校に入学してすぐに自分でもできるバイトを調べ、先生を説得するべく動いた。夏休みの自由研究の題材にするんだとか、社会勉強だとか偉そうなことを言ってみたし、自立について考えてみたいと熱弁も振るった。母子家庭だから親の助けになりたいと情に訴えかけてもみた。勉学に支障をきたすと言われないために、期末テストでは学年三位という数字を叩き出した。
労働意欲って本来は褒められるべきだと思うのに、子どもってだけで否定的になるのが納得がいかない。僅か四十日足らず、その中の一
日三時間ほどを労働に割り振る為の許可をもぎ取るまでに、様々な難関があった。しかし俺は最終的に勝利した。そしていま、晴れて労働に勤しんでいるわけだ。
俺の住んでいるところは、大きな街から四駅ほど離れた面白味のない小さな町だ。社会科で習った、ベッドタウンっていうやつ。住宅地が開発されて、大きめのショッピングセンターや何やかやができ始めて、それによって人口が増えたのはここ十年ちょっとの話。俺が生まれる前までは山と田んぼしかないスタンダード田舎っていうような場所だったらしい。そんな町の一角、駅を見下ろす南山手エリアの夕刊
を、俺は担当している。小高い山の裾野のに沿ってトウモロコシの実のように家が立ち並んでいる場所を、自転車で配達して回る。初日の夜はふくらはぎがパンパンに張って眠れなかったけど、それも一週間くらいで慣れた。
「――今日も精がでるねえ。ほら、飲んでお行きなさいな」
「ありがとうございます!」
バイトを始めて、十日が過ぎた。中学生の新聞配達員という物珍しさもあってか、顔を覚えてくれたひとは多い。その中でも何人かは、わざわざ時間を見計らって冷たい飲み物を用意してくれるようになっ
た。
「本当に偉い子ねえ。息子たちにも言ったのよ、いまどきこんな真面目ないい子はちょっといないわよって。若い内から労働を知るっていいことよ」
「はあ、どうも」
炎天下でペダルを漕ぎまくって汗だくなので好意はありがたく頂くわけだけど、その度に褒められるのには辟易してしまう。子どもが働く姿に感動を覚えるひとは一定数いるということを、俺はこのバイトで知った。子どもの労働を良しとしない考えと、美とする考えが大人
にはある。これって本当に自由研究のテーマになるかもしれないって思っている。まさに、一石二鳥。
「何だよ、ばあちゃんイチオシの中学生新聞配達員って、啓太かよ」
玄関先で冷茶をがぶ飲みしていると聞いたような声がして、見てみれば廊下の奥にクラスメイトの厳が立っていた。厳は小学校から同じだけど、あまり話したことがない。ここが厳の家だなんて、知らなかった。
「やあ、久しぶり。元気そうだね、厳」
「お前の方がな。顔、すげえ真っ黒じゃん。健康的っつーか、もうキ
モい域だし」
ゲラゲラと笑う厳の向こうから、ゲームの音と冷えた空気がひたひたと流れ出てくる。厳は笑顔のまま、お前んちってそんなに金がねえの? と言った。俺にお茶を出してくれたおばあさんがそれを叱るように声を上げる。一瞬腹の奥でちりりとした痛みを覚えたけれど、俺は普通の顔をして頷いた。そんなに裕福ではないね、母さんひとりの稼ぎで生活してるわけだし。
「夏休み返上で働かなきゃいけないなんて、母子家庭は大変だよなあ」
「大した拘束時間じゃないよ。それに、別に大変でもない」
まああ、と小さく声を漏らしたおばあさんが、孫から俺に視線を戻す。その目を見て、途端にうんざりしてしまう。これまでに何度となく遭遇してきた、俺が一番嫌いなやつだ。さっきまでの勤労少年を見るそれと少し似ていて、けれど決定的に違う色。
大人って、本当に不思議だ。親が片方いないってそれだけのことが、どうして哀れみに繋がるんだろう。こんなに健やかに成長しているのを見れば、不憫な存在じゃないことなんてすぐに分かるじゃないか。
おばあさんは俺の腕をぐっと掴んで、口調を強くした。
「お母さんは、子どもをこんな小さい内から働かせることをどう考えてるの? 学校の先生方はどうして許可を出したの?」
ああ、そっちに飛び火しちゃうわけね。さっき自分が口にした台詞、覚えてないのかよ。
「もちろん母は子どもにはまだ早いって反対しましたけど、俺が自分の成長のためにやりたいって言い張ったんです。自立を目指すことに、早い遅いがあるとは思いません。それに夏休みの自由研究の為でもあるし、先生方もそれを理解してくれました。せっかくの機会だか
ら見聞を広めるようにって言われました」
許可をもぎ取るために方便を駆使したお蔭で、すらすらと言葉が口をついて出る。しかしおばあさんは眉間に皺を刻んだまま鼻を鳴らした。
「可哀相そうに。そんな風に言わされてるのね」
さっきまでうつくしいと称賛されていたものは、彼女の中で憐れな強制労働に変わった。その変わり身の早さに思わず笑ってしまう。同情なんて必要ないから、安易に偏見を口にする孫の教育にでも熱を注げよ、と腹の中で思う。いやでも、こんなひとだからこそ、孫の厳が
あんな風に育つのか。相変わらずヘラヘラした厳の顔をちらりと見た。
「じゃ、ごちそうさまでした。次行かなきゃだから、これで失礼します! じゃあね、厳」
早口で言い、玄関を出る。夕暮れどきとは思えない熱がすぐさま汗を誘う。焼けた鉄板のような熱さのサドルに跨がると、厳がおーいおーいと追いかけてきた。
「どうしたの、厳」
「いやいや、あのさ、近松晴子! お前、晴子の家にも行ってたりす
んの?」
思いもよらぬ名前が出て、思わずあっさりと頷いてしまう。厳がにたりと笑う。
「マジかー。あのさ、晴子の家っていまヤバいらしいけど、どうよ?」
小太りの厳はさっきまで涼しい部屋にいたくせに、もう鼻の頭が濡れている。染み出た脂のようなそれを見ながら、どうよって何、と訊き返す。田岡とのことなら、喧嘩両成敗って扱いになったって聞いたけど。
「そっちじゃねえよ。烈子ばあさんの方。おかしくなったらしいんだよ、ココが」
厳は右手の親指で、自分のこめかみの辺りをつついてみせる。頭、と呟くともったいぶって頷いた。
「先月のことらしいんだけどさ、真夜中に叫びながらうろついてたんだってよ」
「へえ……、それって徘徊ってやつ?」
「それ! 晴子と父ちゃんが慌てて連れて帰ってたらしいんだけど、暴れて大変そうだったって。これって、ヤバくね? 烈子ばあさん、
ボケてんだよきっと。次は、鎌振り回すかもしれなくね?」
厳がヒッヒッと引き笑いを起こす。十一年前の悪夢、再来ってやつだよな。今度こそ、猟奇的殺人事件確定。
「止めときなよ、そういう風に言うの。田岡みたいでダサい。それに、先生にバレたら問題になる」
耳にこびりつくような笑い声にイラッとする。クラスメイトの家の事情を面白おかしく話すことを禁ずるという書面が配布されたのは、終業式の日のことだった。
厳は鼻で笑い、田岡は馬鹿だよなあと言う。
「泣き虫晴子に負けるくらい弱いくせに調子に乗ってさ。あいつ、いまほとんど家から出てこないらしいぜ」
「田岡は、自業自得だと思う。ていうか、本当にそういう低能な発言止めろって。ダサいってさっきから言ってんじゃん」
話す気も失せて、ペダルを踏み込む。低能じゃねえし! ふざけんな! と厳の怒鳴り声がする。もちろん無視しながら、ひとつ給水所が減ったなと思った。
晴子の祖母は烈子さんといって、小学校ではちょっとした有名人だった。八十を越した年寄りなのに身長が百七十センチもあって、肩幅
が広くてがっしりした体つきをしている。若いころ、何かの競技で国体に出たことがあるらしいけど、俺は短距離走だと睨んでいる。定規を添えているみたいに背筋が伸びていて、肌は照り焼きチキンみたいにてらてらと艶がある。遠目から見ても異様なオーラを纏っているひとだ。烈子さんはたったひとりの孫である晴子を溺愛していて、朝夕必ず校門まで送迎に来る――烈子さんは免許を持っていない。誰かが晴子にちょっかいをかけたり泣かしたりしようものなら火を噴くように怒り、追いかけてくる。老体とは思えないほど足が速くて、逃げきれた者はひとりとしていなかった。首根っこを押さえつけ、泣くまで
叱りつける烈子さんは、俺たちにとって恐怖の対象だった。
中学に進学してからも、烈子さんは変わらず送迎をした。帰りのチャイムが鳴ると、校門の前にはもう烈子さんが立っている。同じ小学校だった俺たちには当たり前の光景だけど、他校出身の奴の目には異様に映ったらしい。過保護だとか気持ち悪いだとかさんざん騒ぎ立て、そんな祖母にべったりくっついていた晴子を馬鹿にし、笑った。
そしてそいつらは、町の底に沈み込んでいた過去まで掘り起こした。
「あのばあさん、殺人未遂犯なんだってな。鎌持って近松の母ちゃん
を追いかけ回して、挙句に追い出したんだろ。そんなのが毎日校門に立ってるなんて、怖いんだけど」
烈子さんは、十一年前に事件を起こしていた。いや、事件と呼ぶほどでもないかもしれないけど、まだ拓けていない田舎町でパトカー三台、救急車二台を出動させる騒ぎにはなった。ことの起こりは、嫁と姑の諍いであるらしい。烈子さんは草刈り鎌を持ち、お前など実家に帰ってしまえと嫁を追い回した。ふたりは町唯一の繁華街であった商店街で盛大な追走劇を繰り広げ、その先にある駅で野次馬の群がる中、警察に捕縛された。
結果として烈子さんは逮捕されなかったから、色んな事情があったんじゃないかと思う。ただ、晴子の母親はこの町を出て行ったまま帰って来ていないし、晴子は烈子さんと父と、いまもこの町で暮らしている。
遠い昔の話だ。俺たちはまだ赤ん坊で、クラスの半分はこの町に住んでさえいなかった。この事件はニュースで取り上げられはしなかったから、大人でも知らないひとはいる。それなのにいま、近松家のお家騒動を知らない中学生はいない。少なくとも、俺たちの学年では。
ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーター気取りでこの話
を触れ回ったのは田岡。もちろん、他校出身だ。門の前に立ち、孫娘を待っているだけの老婆の存在を驚異のモンスターに仕上げたあいつは、執拗だった。
誰よりも熱心に、そうすることが義務とばかりに、晴子に絡んでいった。
なあ近松、いい加減ばあさんに来るなって言えよ。あのばあさん、気持ち悪くて不快なんだよ。なあ、分かってるのかよ、近松。
なあ近松。この間、お前のばあさんに怒鳴られたんだぞ。晴子をいじめるなって。オレはみんなのために言ってやってるんだよ。分かん
ねえの?
晴子は田岡が寄って来ると、いつも目を閉じて俯いた。田岡がどれだけ酷い言葉を投げつけても、否定も肯定もしない。泣きもせず、怒りもしない。何も起きてないとばかりに、無反応になる。
それは全く、小学校のときから何も変わらない、いつもの晴子の姿だった。晴子は嫌なことがあると、すっと自分の殻に籠もる。そして、校門の前にいる烈子さんの陰に隠れてからようやく泣くのだ。烈子さんは大きな体で晴子をぎゅっと抱きしめて、殻の中に溜まっていた涙を全部受け止めて、その量だけ代わりに怒った。何年もそれを見
てきた俺には、当たり前のいつものことだった。
だからあの日、晴子が田岡に殴りかかって行ったとき、俺はめちゃくちゃ驚いた。そしてそれと同時に、停滞し続ける問題を認め、自らぶち壊しに行った姿に感動してもいた。それはまさに孵化のようで、お前そんなことできたんじゃん、って。
でも思い返せば、その日に烈子さんが校門前にいた記憶がない。というより、その前から烈子さんの姿を見掛けた覚えがない。いつから彼女はいなかったんだろう。あまりにも風景に溶け込みすぎていて、見落としていた。
考えを巡らせている間に、晴子の家に着いた。純和風の建物で、俺の肩より少し高めの門扉がある。門の脇に郵便受けがあって、いつもそこに新聞を入れるのだけど、近松家の住人に会ったことは一度もなかった。偶々だと思っていたけど、もしかして何かあってのことだったんじゃないのか。厳の言葉と、校門前に佇んでいた烈子さんの姿がぐるぐる回る。
首に掛けたタオルで汗を拭い、目の前の家を見上げる。いっそ呼び出しベルを押してみようか。でも、何て言うんだ。烈子さんについて訊きに家を訪ねるほど、俺と晴子は親しくない。
「何してるの、啓太くん」
不意に声がかかってびくりとする。振り向けば、晴子が立っていた。白いTシャツにデニムスカート。黄色のサンダルを履いて、片手にスーパーの買い物袋を提げている。
「うちに、何か用?」
「あ、これ! 夕刊!」
慌てて新聞を差し出す。空いた方の手で受け取った晴子は、不思議そうに首を傾げた。
俺、夏休み限定で新聞配達のバイトしてるんだ。夕刊だけなんだけ
ど、このエリア担当。学校から許可貰わなくちゃいけなくて、これがもう大変だった。最後はゴネてもぎ取れた感じ。この夏は稼ぐぜ! そんなことを捲し立てるように言って、余計なことを言い過ぎたとすぐに悔やむ。
だけど晴子は真面目な顔をして聞き、深く頷いた。啓太くんは、泳いでるんだね。
独り言のように言葉を落とした晴子に、首を傾げる。泳いでるって、何だ。ここでいきなりプールの話? 問い返す前に、晴子が背中を向ける。
「お仕事ごくろうさまです。じゃあね」
晴子が門に手を掛ける。
「あの、晴子!」
Tシャツの袖から伸びた白い腕が門を押し開けようとぐっと力を入れた瞬間に、思わず声をかけていた。晴子がおかっぱ頭を揺らして振り返る。
「まだ、何かあるの?」
「烈子ばあちゃん、具合悪いの?」
訊くと、表情がごそっと消えた。返事もせず、門の向こうに去ろう
とする。逃がすまいと肩を掴んで、同じ質問をした。晴子が乱暴に振り払う。小さな手のひらに打たれて、バチンと音がした。
「止めて! 啓太くんには関係ないじゃない!」
晴子が叫んで、それからはっとしたように顔を強張らせる。
「あ……ご、ごめんなさ……」
俺は痛みでじんじんする手を眺めて、それから笑った。
「はは、すげえ晴子。何か、こないだから別人みたいだ」
俺の知っている晴子と、全然違う。晴子は誰かを叩くなんてできないし、大きな声だって出さない。止めて、とか絶対言えない。
「何だよー、晴子。ちょうかっこいくなってるじゃん。どうしたんだよ」
烈子さんの陰でしか泣けなかった晴子と同一人物だとは思えない。ケラケラ笑う俺に、晴子は変なものでも見るような目を向けてきた。
「怒らないの、啓太くん」
「何で。いいことじゃん」
自転車に体を預けて、晴子を見る。おどおどと見返してくる様子は昔のままなのに、中身ははっきり変わっている。
「俺は、そっちの方が断然いいと思う。五年生のときの月次目標覚え
てる? ちゃんと自分の意見を言うってやつ。いまの晴子なら、余裕でクリアできるよ」
一日三回、手を挙げて自分の意見を言う。これが俺たち生徒に課せられたノルマだった。晴子は全然達成できなくて、ある日の帰りの会でつるし上げられた。五十を過ぎた女性担任は、どうしたら晴子が自発的に発言できるようになるか、なんてことを、みんなに議論させた。
「……何でそんなこと覚えてるの」
「そりゃあ、あれだけ騒ぎになれば」
その日の帰り、晴子は校門前にいた烈子さんの前で激しく泣きだし、烈子さんはその勢いのまま職員室に乗り込んでいった。あなたのしたことは教育じゃない。子どものいじめを助長させるだけだ、と怒鳴りながら。もし晴子が今日のことが原因で登校拒否を起こしたら、あなたは責任が取れますか? ちゃんとクラスに戻せますか? そう迫る烈子さんは担任を押し黙らせ、ついには校長までもが出てくる大問題になった。あのときの担任はその後ずっと、晴子を腫物扱いし続けた。
「啓太くんって、記憶力いいんだね」
晴子が嫌な顔をしたけど、にかりと笑ってみせる。
「学年三位の頭、なめんな。でさ、烈子ばあちゃんの具合悪いの。大丈夫?」
懲りずに訊くと、晴子が呆れたように肩で大きく息を吐いた。
「言いたくない。もういいでしょ、じゃあね」
くるりと背中を向けた晴子に、慌てる。
「あーっと、あのさ、俺、すげえ喉渇いてるんだ。何か、飲ませてくんない?」
言っておいて、何でこんなに晴子を引き留めてるんだと思う。家庭
の事情にずかずか踏み込む趣味なんてないのに。しかも、スポーツドリンクなら自転車のホルダーに刺さってる。ダサい引き留め方だ。
だけど、振り返った晴子は戸惑った顔をした後、白い歯を零して少しだけ笑った。滅多に見ることのない笑みは、新鮮に映った。
「仕方ないなあ。入って。麦茶くらいなら、出すよ」
晴子は玄関まで俺を招き入れてくれた。きちんと手入れされた家特有の、しんとした空気が横たわっている。吸い込んだら少しひんやりしていて、晴子の匂いがした。
「あ、うわ……」
来訪者を出迎えるように置かれたものに、俺の瞳は一気に奪われた。
畳半畳くらいありそうな大きな水槽が廊下の先に設置されていたのだ。鮮やかな緑色をした水草が豊かに茂り、ライトを受けて栗色に輝く魚が優雅に泳いでいる。白い縞模様が入った、小さな魚だ。こぽこぽと規則的に水泡が生まれ、水面に弾けて消える。
「近くで見ていい?」
思わず訊くと、晴子が頷いた。靴を脱ぐのももどかしく、家の中に入る。膝を曲げて目線を合わせれば、異世界のような光景が広がっ
た。
「お茶、どうぞ」
夢中になって見ていると、晴子がお盆を持ってやって来た。汗をかいたガラスのコップには、氷がたくさん浮いた麦茶がなみなみと入っている。それを一息に飲みながらも、視線はミニチュアの海に奪われたままだ。
「ありがとう。すげえね、この水槽」
「おばあちゃんの、趣味。色々教えてもらって、いまはあたしがお世話してるの」
まじか。烈子さんなら、土佐犬辺りを飼っていて欲しかった。
「啓太くん、魚が好きなのね」
「うん。一応、俺も飼ってるし」
小さな金魚鉢に、メダカがたった一匹しかいないけど。そんなことを頭の中で付け足す。晴子はふうんと短く答えて、詳しく訊いてこなかった。
「この魚は、何ていうの? 綺麗だね」
晴子が水槽を撫でる。
「チョコレートグラミーっていう、熱帯魚」
「へえ、旨そうな名前」
「ミルクチョコレートみたいな色だから、それが由来なのかな。この魚ね、あたしに似てるの」
細い指がガラスを辿る。何気なく見ると、手の甲に薄い痣が広がっていた。
それって田岡のときの、と言うと晴子の眉尻がぐっと下がる。痣を隠すように背中に回した。
「こないだまで腫れてて、ずっと湿布貼ってたの。こんなになるなんて、思わなかった」
「そりゃあ、あれだけ殴ればね」
あのとき、反応のない晴子に業を煮やしたのか、顔を覗きこんだ田岡の鼻っ柱を、晴子はいきなり全力で殴りつけた。ごりっと鈍い音がして、ひょろ長い田岡の体が倒れる。パァッと鼻血が舞って、女子の数人が悲鳴を上げた。その声をかき消すようにして『あたしの家族を悪く言うなぁぁっ!』と甲高い絶叫がする。あれが晴子の声だと瞬時に判断できた奴は、いなかったんじゃないだろうか。椅子を蹴って立ち上がった晴子は、大量の鼻血に動揺して唸る田岡に馬乗りになり、頬に拳を叩きつけた。『あたしは、負けない! こんなの、怖くな
い!』殴りながら、晴子は目を真っ赤にして泣いていた。小さな拳は何度も田岡の顔に振り落とされ、鈍い音が響く。
誰も、それを止められなかった。欠片も想像しなかったありえない状況に、対応できなかったのだ。そんなとき、傍観者のひとりが悲鳴を上げる。顔を血塗れにした田岡は、泣きじゃくりながら失禁していた。艶をなくしたリノリウムの床に、じわじわと生温い水が広がっていった。
「あたしを止めてくれたのが啓太くんだったよね。もういいだろって」
晴子の手を止めたのは、俺だった。手首を掴んだら、痙攣しているみたいに震えていた。手のひらに、その感覚がまだ残っている。
「あのさ、晴子。どうしてキレたの」
訊くと、晴子は感情の窺えない顔で俺を見た。水槽のライトを浴びた瞳がキラキラしている。唇がゆっくり動く。
「だって、そうしないと生きていけないと思ったから」
晴子がそうっと喋るのは烈子さんの教えだと、昔誰かから聞いた。大事なことほど、頭の中で何度も考えてから舌に乗せなさい。言葉を大切にしなさいと言われたから、晴子はその通りにしているんだ、
と。あのときも、晴子は頭の中で言葉を吟味したんだろうか。そして、いまも。
ふと、室内を見渡す。広い家の中には、俺たちふたり以外の気配はない。遠くに蝉の鳴き声が、近くは水槽のポンプの音だけが、ゆるりと囲うように響いている。
「烈子ばあちゃん、いないのはどうして?」
小さなころから馴染んだあのオーラの、欠片すら見つけられない。
晴子がふっと小さく息を吐く。
「啓太くんがこんなに知りたがりだなんて思わなかった。じゃあ、あ
たしからも、質問」
「何だよ」
「啓太くんのその変化の理由は何?」
晴子のくるりとした丸い目が、俺を真っ直ぐに見上げてくる。思っていたよりも大きな右目の下に、小さな黒子(ほくろ)があるのが見えた。
「啓太くんも、何だか変わった。もっと周りに無関心だったし、先生たちを説得してまでバイトをするような積極さもなかったよね」
まさか言い返されるなんて思っていなくて、目を見開いた。口も、
だらしなくぽかんと開けてしまう。晴子が、俺のことをそんな風に見ていたなんて想像もしなかった。自分の殻の中だけを見て生きてると、思いこんでいた。
「アルバイトを始めた理由は何?」
晴子の声には、下手な嘘など見通してしまうような強さがあった。これは本当に俺の知ってる晴子の延長線上なのか。言葉を失う。
しかし晴子は本気で俺から回答を引き出すつもりはなかったらしい。押し黙っていると、僅かに微笑んだ。
「お茶飲んだら、帰ってね。あたし、お夕飯の支度をしなくちゃいけ
ないの」
そう言って、背を向けた。音もなく奥へ消え入ろうとして、くるりと振り返る。薄闇を背にして言う。
「啓太くんが理由を教えてくれたら、あたしも教えるね。コップ、その辺りに置いてくれてたらいいから」
今度こそ消えて行く小さな背中。コップの中の氷が小さく音を立てて崩れた。
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登校日は、朝から激しい雨が降っていた。
雨粒が地面を荒々しく打ち、水気を含んだ生温い空気がじっとりと肌を包む。通気性の悪い制服のシャツが張り付いて、不快指数を上げる。天気予報によれば、この雨は今日の夜更けまで続くらしい。ということは、この最高に最低な天候の中、新聞を配って回らないといけないわけで、気分が滅入る。
しかし、先輩たちが語りつくした話題だろうが、登校日って何のためにあるんだろう。終業式とほぼ同じ説教を聞き流す数時間に、意義を見いだせない。
下手にサボってバイトを取り消されたくないので雨に濡れつつ登校した俺だったが、時間経過と共に膨れていく苛立ちのやり場を探していた。
妙にベタついた椅子も机も、重たい空気を無駄に掻き回すだけの空調ファンも不快だ。久しぶりー、だなんて手を取り合って喜んでいる女子の姿もムカつく。前髪切ったとか、太った痩せたとか、どうでもいい。携帯買ってもらったとか、もっとどうでもいい。
苛立ちの理由は、本当は分かっている。どうしようもなくて、当り散らしたくなっているだけだ。
昨日の夜、母親――さっちゃんが泣いた。泣いていたのを、見てしまった。俺が寝ていると思っていたのだろう、居間にひとりいたさっちゃんは幾つかの写真を見ながら泣いていた。ぐずぐずと鼻水を啜るさっちゃんの傍らにはたくさんの書類が積まれていて、それはここ半年ほど続いている俺とさっちゃんの喧嘩の原因だった。
襖の隙間から、それを黙って見つめた。
こんな場面を目撃したのは、何度目かになる。だけど、何度見ても慣れずに大きな衝撃を受けてしまう。さっちゃんは俺には絶対に見せない表情をしていて、俺の知っているさっちゃんはごく一部でしかな
いんだと知らしめてくる。ずっと母子ふたりきりで、頼りないさっちゃんは俺がいないと困ることが多くて、だから何でも一人前にこなせるようなつもりになっていた俺に、現実を突き付けてくるのだ。お前はまだ、頼りない子どもにしか過ぎないのだと。
襖を開けてどうしたのと言えば、さっちゃんの涙は止まるだろう。でも、それは一時的なものでしかなくて、俺ではどうやっても埋められない空洞がある。さっちゃんは俺のいないときに新しい涙を流すだけだ。そんなことを考えて、哀しくなる。
薄っぺらい襖一枚を挟んで、なす術もないままその場に立ち尽くし
た。
「おはよう、啓太!」
バン、と背中を乱暴に叩かれてびくりとする。我に返って振り返ると、友達の洋平が人の良さそうな笑みを浮かべていた。色白の洋平は俺の腕を見ながら、すっげえと羨む。
「ちょっと見ない間に、日に焼けて引き締まって見える。実際がっしりしてるし、筋肉ついた?」
「そんなことないよ、まだ半月くらいだしさ」
「すげえよ、啓太。夏休み明けにはムキムキだな! かっこいいよな
あ」
洋平の手放しの褒め言葉に、少しだけ顔がにやけてしまう。頭の中を渦巻いていた重たい感情が静まり、心の奥底に沈んで束の間姿を消す。
逞しくなったような気がしていたんだ、実は。このまま夏の終わりまで自転車を漕ぎ続けていたらもっと俺の体は変化するに違いなくて、それを密かな楽しみにしている。
俺の心を意図せず持ち上げてくれた洋平が、発売されたばかりのゲーム雑誌を広げながら言う。
「これ見てくれよ。バトマスの特集記事が載ってるんだ。買ったら絶対一緒に遊ぼうな。啓太だったら、関東ランキングのトップ狙えるぜ。まあ、オレも負けねえけど」
「あー……、そうだな。一ヶ月の差なんて、すぐに埋めてやるよ」
バトマス――『Battle Master』は、リリースから数年が経っても、多くのファンを抱える対戦型格闘ゲームだ。アクティブユーザーがいまもなお増え続けている、俺のお気に入り。アーケードゲームだったそれが先月、満を持してポータブルゲーム機に移植され、洋平は発売日当日にゲットした。
俺もこれを手に入れる為にペダルを漕いでいる、ということにしている。
アルバイトをするというと、洋平を始めとした友人たちにも理由を訊かれた。社会勉強なんていう対大人用のダサい理由で同級生が納得するわけがない。かといって、本当の理由はもっとダサくて言えなかったから、嘘を吐いた。
再びかき混ぜられそうになった感情を宥めて、何てことない顔をして洋平とゲーム談義を繰り広げる。
「新キャラはどうなんだよ、使える?」
「スピードはあるんだけど、パワーがない。技のコンボで攻める感じかな。上級者向け」
「まじかー。女キャラっていうのはどうもしっくりこないんだけど、試してみたいな」
「お、おはよう!」
いきなり声が降って来て、視線を上げると晴子が立っていた。強張った顔は紅潮していて、学校指定の斜め掛けバッグの紐をぎゅっと握っている。
おはよ、と応えると洋平も同じように返す。ほっとした顔をした晴
子は、周囲の奴らにも挨拶を繰り返し始めた。浮わついている教室の空気が少し変化する。
数人が短く挨拶を返すと、晴子はそれに満足したように頷いて自分の席に着いた。
「近松、どうしたんだろ急に。挨拶なんて、いままで一度もしたことねえのに」
窓際の席に落ち着いたおかっぱ頭を見ながら、洋平が言う。晴子はバッグの中からピンク色のカバーの掛かった文庫本を取りだし、読み始めた。烈子さんにべったりの晴子には、これという友達がいない。
本とにらめっこをしているのは、普段の通りだ。
すぐにのそのそと担任が入って来て、出欠を取り始める。
「田岡は、休みだな」
教室の中央辺りにぽつんと空席があった。あんなことがあった後じゃ、出て来れねえでしょ。誰かの呟きが聞こえた。あいつの方は、堂々と出て来てるけどな。
斜め前の晴子を見る。担任の方を向いた横顔は、ぎゅっと唇が引き結ばれていた。
事件が起きたのは、帰りのH・Rを待つ僅かな時間だった。洋平や他のクラスメイトと話をしていると、下らないことを言って笑っていた洋平が表情を改めた。おいあれ、と顎で示す。見れば、数人の女子が晴子を取り囲んでいた。
「ねえ、近松さん、返事してー?」
「田岡くんに謝りに行ったほうがいいって、アドバイスしてあげてるだけなんだよ。そんな風に意地張らないでぇ、顔上げよ?」
クラス委員をやっている松田が、小さな子に言って聞かせるような作り声で話しかける。
「田岡くんが学校に来られなくなったら、嫌な思いするでしょ? あたしたちついて行ってあげるから、謝りにいこ。ね?」
あいつらは確か田岡とは別段仲は良くなかったグループだ。笑みを含んだ嫌な雰囲気で、晴子に善意だか悪意だかわからないものを押し付けている。比較的背の高い奴らの中で、晴子はぐんと小さく見えた。
近松さん、あんな酷いことしたんだもん。自分でも分かってるよね? このままじゃ、クラスにも居辛いと思うよ。だからさ、ごめんなさいしに行こうねえ。
「女子って、怖いよな」
よく、あんなこと思いつくよな、と洋平が小さく呟き、俺たちは頷いた。女子っていうのは最近、謎の生き物に見える。
「……殴ったことは、先生の前でちゃんと謝ったよ」
俯いたまま、か細い声で晴子が言う。それじゃ足りないんだってば、と被せるように声がする。田岡くんが学校に来ていないことで、分かるでしょ。近松さん、自分のしたことの責任とらなくちゃ。
「あたし、悪くないから、行かない」
晴子が顔を上げた。真っ白な顔色で、悪くない、と繰り返す。だっ
て、田岡くんはあたしの家族を馬鹿にした。
震えながら、しかしはっきりと晴子は自分の意見を言う。
「田岡くんには責任はないの? もしあたしが学校に来られなくなっていたら、田岡くんは謝りに来たの? みんなは、謝りに行けって言ってくれたの?」
女子たちが、黙る。俺はそれを見ながら少し興奮していた。女子の変化は理解できないけど、晴子のそれは分かりやすくって気持ちいい。
「田岡くんは、悪くないんじゃないかな」
果たして、松田が低い声で応える。あたし、近松さんのおばあちゃん怖かったよ。人のことジロジロ見まわして、挨拶しなさいとか怒鳴って、すごく嫌だった。十一年前の話を聞いたときは、絶対怒らせないでおこうって思ってた。みんなも、そうだよ。ねえ、分かってる? 女のひとで、しかもお年寄りだから、校門の前に立ってても許してもらえてたんだよ。同じことを大人の男のひとがやってたら、警察に通報されちゃうようなことなんだよ。だから、止めろって言った田岡くんは、全然悪くないよ。みんなの為に頑張って言ってたんじゃないかなってあたしは思うんだけど。
その言葉は冷ややかに、晴子にぶつけられた。
「あ……それは、ごめんな、さい。……でも六月くらいからは、来てなかったし……もう、来ないから」
晴子が言葉を苦しそうに吐き出す。
「じゃあどうしてそれを田岡くんに言わなかったの? それも、田岡くんに謝るべきだよ」
「田岡くんだけじゃない、みんなにだよ! あたしたちの怖かった何十日は消えてなくならないんだから」
離れたところからでも、晴子の目の周りが次第に赤く染まるのが分
かった。
「もういい加減にしとけよ。そういうの、見てて気分悪い」
俺が言うより先に、洋平が声を上げた。
「お前らが近松責める権利ないだろ。なあ、啓太」
洋平に全くの同意見なので、頷く。
「田岡は善意で言ってた風には感じなかったな。それに、少なくとも田岡と晴子の問題で、松田たちは無関係だよ」
だって啓太くん、と松田が口を尖らせかけたとき、ヒッヒッと笑い声がした。
「啓太は本当に、晴子がお気に入りだよなあ」
見れば、教卓に腰かけた厳がふくよかな体を揺らして笑っていた。
「どういう意味、厳」
「どういうも何も、この間から啓太は晴子を庇ってるだろ。いまだって、女子同士の話にまでしゃしゃり出て行ってさ」
ねっとりと嫌味たらしく言う。どうやらこの間の仕返しのつもりらしい。こいつは本当にくだらない奴だなと呆れる。
厳の友人たちが、「あいつらそういう関係?」とはやし立て、女子たちは「嘘ぉー!」と甘えたような悲鳴をあげた。厳は大袈裟に肩を
竦めて首を横に振る。
「そうじゃないって。お前たちってば低能だなあ。こいつら、片親同士だよ。連帯感っていうの? 啓太はそういうのを晴子に感じちゃってるわけ」
ざわめきが奇妙に歪んだ。からかうような色を浮かべていた奴らが、表情の扱いに戸惑う。その中の幾人かが慌てて作った顔は、俺が一番嫌いなやつだった。
晴子が俯き、俺の腹の奥がぐるりとうねった。突き動かされるように立ち上がる。脂肪まみれの弛んだ体を、頭の悪そうな笑みを浮かべ
ている顔を殴りたいという衝動が爆発しそうになる。
躍りかかろうとする俺の手首を洋平が掴む。バイト、と短く叫ばれてぐっと堪えた。
「オレが先に言いだしたことだろ。啓太の家は関係ない」
洋平が言い返すも、厳は笑みを崩さない。ハイハイ、そうですねー、と気のない言葉を吐いて俺を窺ってくる。煽ってくるような視線を見て腕にぐっと力を入れると、それ以上の力で洋平が止める。
「……俺に全く非のないところを、勝手にウィークポイント扱いしないで欲しいんだけど」
感情的になったら負けだと、必死に言い聞かせる。深く息を吐いて、歪でも笑みを作ってみせた。
「それで俺を傷つけられると思ってんなら、大間違いだからな。厳が『脂(し)ブウ』って呼ばれてることよりもよほど、何てことない」
厳が気にしてる渾名を口にすると奴の豊満な頬にかっと赤みが差した。小さな笑いが幾つかおきたのを聞き、勝ったと思う。
わなわなと震えた厳が何か声を上げる前に、担任が教室に入って来る。担任は教卓に腰かけた厳を短く叱り、帰りたかったら早く席につけと声を張った。それで話はうやむやに終わり、放課後になった。
「啓太くん、あの、ごめんなさい……」
帰り支度をしていると、松田たち数人の女子が俺のところへやって来た。下を向き、おずおずと言う。
「啓太くんに嫌な思いさせるつもりなんてなかったの、本当に」
「ああ、別に」
松田たちがきっかけだったことすら忘れていた。
「ごめんね。厳くん、酷いよね。あんなこと、言うべきじゃないよ」
「啓太くんを傷つけようって悪意が見え見え。最低だよ!」
憤慨したような口ぶりに、笑みが湧く。お前たちが晴子にしたこと
に悪意は存在しなかったわけ? 俺ってそんなに憐れまれる存在じゃないんだけど? そんなことを思っても、もう口に出す気も起きない。何がどう変わるわけじゃない。
適当にあしらいながら視線を投げると、晴子がひとり教室を出て行くのが見えた。松田たちに顔を向ける。晴子には謝りに行かないの、と言いかけたのを飲み込んで、もういいからと言って俺も廊下に出た。
何を言おうとか、考えていたわけじゃない。それでも混雑している昇降口を出て晴子の姿を探したけど、色とりどりの傘の中から小さな
晴子を見つけ出すことはできなかった。
雨は、夕方になると勢いを増してきた。雨具を身に付け家を出ようとしたら、仕事帰りのさっちゃんと鉢合わせしてしまった。昨晩のことを俺が見ていたなんて知らないだろうけど、何となく顔を合わせづらい。黙って出て行こうとする俺の袖を掴んで、さっちゃんはごめんと大きな声で言った。
「もういい加減、仲直りしよう。私、どうかしてたの。いまは、もうそんなこと考えてない」
「……あんなに行きたいって言っておいて?」
「だから本当に、どうかしてたの」
さっちゃんが大阪への移住を考えていると知ったのは、小学校の卒業を目前にしたころだった。押入れの奥に隠していたバッグに、不動産屋から取り寄せた書類や、求人案内なんかがみっちり詰まっているのを俺が見つけたのだ。どういうこと、と訊けばさっちゃんはここに住んでみたいと言った。
大阪に知り合いはいない。というより、俺たち母子には頼れる親戚なんて皆無だ。
長く住んでいるこの土地には、知り合いがいて助けてくれる。さっ
ちゃんの昔からの友達や、会社の同僚であるフィリピン人のおばちゃんたちは俺をとても可愛がってくれる。近所のひとたちだって、親切だ。そんなものを全て捨てて、縁もゆかりもない土地に行こうとしているなんて、どうかしている。
『それは、俺のオヤジに関係あるの? 一緒に住む、とかそういうこと?』
俺はオヤジの顔を知らない。生きてるって知ったのも、一昨年の年末の話だ。大金だけ置いていなくなったっぽいから、ヤバいことをしているひとかもしれないと思っている。
そのオヤジと一緒に暮らす。それくらいしかさっちゃんの行動理由を考えられなかった。それだったら、俺は賛成するしかないんだろうか。だって、オヤジが来たと思われるあたりから、さっちゃんは目に見えて変化した。
しかし、さっちゃんの返答は、想像以上に情けなかった。
『一緒になんて、住まない。どこにいるのかも知らないもの。ただ、大阪にいるらしいって話をひとから聞いただけだから……』
『は? そんな不確かなことで俺を振り回すつもりなの?』
ふつふつと怒りが湧いてくる。オヤジの存在を知ったとき、真っ先
に覚えた感情は不安だった。急に現れた存在が俺に与えたのは喜びではなく、恐怖。それを、さっちゃんは分かっていない。俺がオヤジっていう男を受け入れようと決意したその思いも、分かってない。
『ふざけるなよ⁉ 俺の気持ちを無視するのも、大概にしろよ!』
気付けばさっちゃんに詰め寄っていて、泣かせていた。さっちゃんは涙をこぼしながら、ごめんと繰り返した。啓太のこと考えてなかった訳じゃないの。また会いたかっただけなの。ごめん。ごめんなさい。
「――オヤジのこと、もうどうでもいいの?」
意地悪な質問だと思いながら訊く。昨晩のことを思えば、どうでもよくないことなんて分かりきってる。さっちゃんの瞳が、案の定揺れた。
「どうでもいいわけじゃ、ないけど。でも、いいの」
「俺の為に諦める、とでも言うんだろ?」
自分でも嫌気が差すほど冷たい声が出た。さっちゃんの顔が強張る。それでも、口は勝手に動いた。
「昨日の夜もその前も、こっそり泣いてたのに俺が気付かないとでも思ってた? 本当は行きたいくせに、俺の為に我慢するって言うんだ
ろ」
「違……、私は、そんなつもり」
「あのときみたいに、オヤジのところに行きたいって泣けばいいだろ! 俺のせいにして諦められるくらいなら、最初から願ったりすんなよ!」
見開かれた瞳がみる間に充血していく。その顔から逃げるように、家を飛び出した。
むしゃくしゃする気持ちを抱えて、自転車を漕ぎまくった。通り抜けざまに水を跳ねてくる車にも、吠えかけてくる犬にも、善意のお茶
にさえ、殺意が湧く。
気を抜けば色んなものが俺の頭に溢れて、叫びそうになる。厳も、そのばあさんも、松田もさっちゃんも、勝手に現れて俺を苛立たせる。カゴに詰まった新聞を道路にばらまく想像を繰り返して、どうにかやり過した。
「……っ! ああ、くそ!」
ペダルが急にスコンと抜けるような感覚があって、バランスを崩す。どうにか体勢を整えて見てみれば、チェーンが外れていた。支給された自転車はただでさえ俺の体には少し大きくて、しかも古い。チ
ェーンが緩いような気はしていたけど、何もこんなときに外れなくってもいい。びしょ濡れになって嵌め直しながら、世界中に呪詛を吐き散らかしていた。こんな世界、いますぐ終わっちまえ。みんな、消えてなくなっちまえ。雨が目に入って、視界が潤んだ。
どうにかチェーンを戻したときには、雨具の袖も両手もオイルで真っ黒に染まっていた。古くなったオイルは悪臭とべたつきが残る。首に掛けていた濡れそぼったタオルで手を拭くと、べったりと汚れがつく。拭うものがなくなった、と舌打ちをすると、目の前にふわふわした白いタオルが差し出された。
「使って」
顔を上げると、傘をさした晴子が立っていた。俺に、タオルをぐいと突き出す。
「これ使って。それ、もう使えないでしょ」
見渡せば、数十メートル先が晴子の家だった。もうこんな所まで来ていたのか。
「あ、りがとう。だけど、汚れるから」
「いいから。ほら」
晴子は俺の首に無理やりタオルを掛けて、うちに少し寄りなよ、と
言う。
「石鹸で手と顔を洗ったほうがいいよ。ほっぺたまで汚れてる」
気付かなかった汚れを指摘されて、恥ずかしくなる。素直に頷いた。
玄関の横に設置された水道で汚れを落としていると、中から晴子の声がする。
「お茶をいれたから、終わったらこっちにどうぞ」
首に掛けられたタオルで手と顔を拭き、中に入ると、晴子が座って待っていた。コップに入った麦茶を、俺に差し出してくれる。
雨具から雫がぽたぽた垂れているので、なるべく奥に入らないようにして受け取った。
晴子の家は相変わらず、空気が静かに落ちついていた。ここだけ湿度が違うんじゃないかと思うほど、清涼さが満ちている。深呼吸をすると、不思議と心が凪いでいった。
「何か、ごめんな」
人心地のついた自分を悟られたくなくて、ぼそりと呟く。
「そろそろ新聞届くかなと思って外に出たら、啓太くんが見えたから。あたし、今日のお礼言いたくって待ってたんだ」
晴子は恥ずかしそうに笑って、頬を掻く。
「今日は、ありがとう。あたし、もう何をどう言ったらいいのか分からなくなってたから、啓太くんが助けてくれて、嬉しかった」
「……別に。あんなの、ムカついたから勝手に言っただけだし。礼なら、洋平に言っておきなよ」
洋平の方が、俺より余程冷静だった。
「あ、そうだよね。洋平くんにも、言うべきだった。それにしても、こんな雨の中も働かなくちゃいけないなんて、酷いね。嫌だね」
「こんな日があることも知ってたから、別に。晴ればかりじゃない
よ」
さっきまで悪態をつき通しだったことは、情けないので黙っておいた。
ふうん、と晴子が短く答える。俺は玄関の引き戸に背を預けて、外を見た。屋根の端から雨だれが落ちる。雨脚がさっきよりも弱まってきたようだ。残りの配達が済むまで、この調子だといいなと思う。
「すごいね。啓太くんは」
小さな声がして、家の中に視線を戻す。ぺたんと座り込んだ晴子は、肩でため息を吐いた。
「すごいよ。啓太くんは、たくさんのものが見えてるのね。あたしは視界が狭すぎて、何ひとつうまくいかない」
「今日のことなら、もう気にするなよ。晴子が言い返してくるって思わなかったから、あんなこと言いだしただけだ。松田たちが晴子に謝れって迫るのが、間違ってる」
晴子は俯き、小さく首を横に振る。
「本当に、思いもしなかった。周りのひとはあたしを怖がらせるけど、あたしが誰かを怖がらせてるなんて、思いつきもしなかった。おばあちゃんはそんなこと、教えてくれなかったもん」
カランと、コップの中の氷が鳴った。ふむ、と少しだけ考える。
「教わるもんじゃなくて、体で覚えてくもんだよ、そんなの。ひとから叩かれたら痛い。だけど同じことができる手のひらを、自分も持ってる。こういう気付きの繰り返しだろ」
晴子の瞳が持ち上がった。薄暗い玄関の中で、俺に向けられる。
「いつ気付くかなんて、個人差だよ。気付かないままでいることが問題なんだ。だから、晴子が気付いたと思うならそれでいいんじゃないかな」
「啓太くん、すごい……」
晴子の声に、感嘆の色が見えた。説教くさいことを言った自分に気付き、途端に恥ずかしさを覚える。別に、大したこと言ってないだろ。ていうか、こんなの母親の受け売りだし!
「お母さん、かあ」
お茶を運んできたお盆を胸に抱くようにして、晴子が呟く。そして、ねえ啓太くん、と俺を呼ぶ。ねえ、啓太くん。啓太くんは、親のこと好き?
「何で、そんなこと訊くの」
出がけのさっちゃんを思い出す。酷いことを言ったと思う。さっち
ゃんが俺のことを考えて言ったことは分かってたのに、まともに話も聞かずに責めた。
晴子は、ゆるゆると話し始めた。あの噂、知ってるでしょ。おばあちゃんが鎌を持ってお母さんを追い出したっていう。あれはね、お母さんがあたしを殺そうとしたんだって。育児ノイローゼになっちゃって、もう育てたくないって。まだ細いあたしの首をきゅうきゅう締めようとしてるのにおばあちゃんが気付いて、お母さんを追い出したの。お母さんは、晴子なんていらないって言ったんだって。
想像もしなかった内容に、俺は黙って聞くしかない。相槌すら、打
てずにいた。ほとほととした雨音と、水槽のポンプの音だけが静かに座る。
お父さんはね、あたしにあんまり興味ないの。元々、子どもが苦手なんだって。あたしの傍にいたのはいつもおばあちゃんだけだった。だからあたしね、親ってよく分からないの。何かを教えてもらったこともない。啓太くんはお母さんとふたり暮らしだったよね。ねえ、啓太くん。お母さんのこと、好き?
言葉が、出てこない。親のことを素直に好きだと言える時期はとうに過ぎている。いまは特に、そんなこと口にしたくなかった。だけ
ど、誰にも言わずにいた話をしてくれた晴子に応えようと、頷いた。
「……うん、好きだよ。だって俺には、さっちゃんしかいないんだ。頼るひともいない中でたったひとりで育ててくれたことを、すげえ感謝してる」
晴子が少しだけ目を見開いた。それから、初めてきちんと笑った。左の頬に小さく笑窪ができたから、きっとそうだと思う。
啓太くんって、お母さんのことを名前で呼んでるの? 晴子の声が少し弾む。
え? ああ、何か、お母さんって呼ばれたくないみたいで。でも、
常識がないわけじゃなくて、ちゃんとしてる。家の中綺麗だし、ご飯旨いし、よく笑うし。俺は、あれでいいと思う。普段は絶対口にしないような言葉がスラスラ出てくる。そして、誰にも言えずにいた悩みまで、ぽろりと吐き出してしまった。
「俺さ、もしかしたら大阪に引っ越すかもしれないんだ」
「大阪? それは、すごく遠いね。お母さんの仕事で?」
「ううん。それがさ、行方不明のオヤジがそこにいるかもしれないって、それだけ。しかもオヤジってのが、何してるのか分かんない奴でさ」
これまで洋平にすら言えなかったことを口に出せば、胸の奥がふっと軽くなった。溜まっていた重石を吐き出すように、半年ほど前からの話をした。どんどん楽になっていく心に、俺は誰かに聞いて欲しかったんだなと思う。晴子は黙って、重石を捨てる手伝いをしてくれた。
果たしてすっかり軽くなった俺は、呆れるだろと笑ってみせた。向こうには頼るひとどころか、知り合いすらいない。ずっと母子家庭で、お金だって大してないのにどうするんだよって話。でも、会いに行きたいんだって。本当に考えなしなんだ、あのひと。どうしようも
ないよ。
「……でも、啓太くんは行くつもりだったんでしょう」
「え?」
驚いて、晴子を見る。晴子の笑窪が再び現れる。
「アルバイトの理由、分かっちゃった。大阪行きの為にお金を貯めておこうって思ったんでしょう」
虚を衝かれるって、こういうことを言うんだろう。どうやって、この会話からその答えを引き出したんだ。だってさっちゃんでさえ、気付かなかった。
どうして、分かったの。取り繕う余裕もなく訊くと、いまの話を聞いていたら分かるよ、と晴子は当たり前のように言った。
「啓太くんはお母さんのこと好きだから、お母さんの願いを叶えてあげようって思ったんでしょう? 手助けしようって思ったんでしょう?」
「……何だよ、それ」
喉の奥が急に熱くなり、息苦しくなる。何でそんなこと、知ったように言えるんだよ。
「だっていま、全部教えてくれてたじゃない。啓太くんは偉いね。ど
んなところでも生きていこうとしてる」
晴子は穏やかに微笑み、俺はぐっと唇を噛む。赤らんだ顔を晴子から背けるようにして、庭先に顔を向けた。
「……ダサいだろ。マザコンって呼んでも、いいけど」
「何言ってるの。啓太くんがマザコンなんて呼ばれちゃうならあたしは重度の……ええと、祖母コン、いやババコンかな? それになっちゃうよ」
晴子が鈴を振るみたいな声を洩らした。とても優しい音は俺の耳に心地よく響いて、思わず笑ってしまう。ババコンって、何だよそれ。
変な造語だな。
「だって何て言うのか分かんないもん。あ、長話しちゃってごめんね。そろそろ行かないと、大変なんじゃない?」
腕時計を見ると、大幅に遅れている。いくらこの雨でも、これ以上遅れると営業所に苦情の電話が入ってしまうかもしれない。うわ、ヤバい、とコップを晴子に渡した。
「俺、行かなきゃ! タオル、今度返す。ありがとう!」
「あ、待って啓太くん!」
駆けて行こうとする俺を晴子が呼び止める。振り返ると、明日の
夜、家を出ることできる? と訊いてきた。
「行きたいところがあって。啓太くんに付き合って欲しいの」
「どこに?」
「展望公園」
山の上には、公園がある。展望台があって、町を見渡すことができる。小学校のとき、遠足で何度も登った。晴子の家からだと、徒歩で一時間ほどかかるだろうか。
「ダメかな。明日の夜が晴れていたら、でいいんだけど」
晴子の目が、不安そうに揺れる。
「いいよ、行く」
何で展望公園? そりゃあ景色はそこそこ綺麗だけど、夜に行く理由が分からない。しかも俺に付き合って欲しいってどういうことだ。咄嗟に色んなクエスチョンマークが浮かんだけれど、でも俺はこっくりと頷いた。こんな疑問なんて、明日訊けばいいだけのことだ。いまはただ、晴子ともっと話がしてみたかった。晴子がほっと息を吐いて、ありがとうと呟く。それから、明日の二十時に晴子の家の前に来る約束をして、今度こそ晴子の家を出た。
翌日の夜は、昨日の雨が嘘のような快晴だった。さっちゃんには友達と天体観測をすると言って、家を出ようとした。
「待って、啓太、あの」
自転車に跨った俺を、さっちゃんが追いかけてくる。
「あの、気を付けてね」
何か言いたそうに、俺を窺う。
「ねえ、さっちゃん」
「な、何、啓太」
「大阪。行きたいなら行ってもいいよ、俺」
するりと口にできた。だけどそれ以上は何も言えそうになくて、さっちゃんの反応も見ずにペダルを踏み込んだ。
昨日バイトを終えて家に帰ったら、さっちゃんは自室に引っ込んで出てこなかった。茶の間のテーブルにラップが掛けられた夕飯が置かれていて、ゴミ箱には大阪行きの書類が全部突っ込まれていた。一枚一枚くしゃくしゃに握りつぶしてある。温めないまま夕飯を食べた俺はその書類を全部取り出し、綺麗に伸ばした。そしてそれをテーブルに置いてから寝た。朝にはそれはきれいさっぱり無くなっていたけど、俺は訊こうとしなかったし、さっちゃんも何も言わなかった。あ
の書類たちは、どうなっただろう。
つらつらとそんなことを考えながら自転車に乗って晴子の家に行ったら、もう、晴子は門扉の前に立っていた。山登りに行くような恰好をしている。大きなリュックサックを背負っているけど、何が入っているんだろう。俺の背中のメッセンジャーバッグの中には、タオルとスポーツ飲料のペットボトル、財布くらいしか入ってないけど。
「行こうか。あ、啓太くんは自転車そこに停めて。坂道はきついし、歩いて行こう」
俺を引率するように、晴子は前を歩き出した。
晴子は特に何も話さない。俺も、何を話していいか分からなかったし、気を抜けばさっちゃんのことを考えてしまっていて、無言で歩いた。
「あたし、同級生と出かけるの初めて」
ふいに晴子が口にする。それはそうだろうなと思う。晴子が烈子さん以外の人間と一緒にどこかに行くなんて、なさそうだ。
「こういうときって何を話せばいいのかな」
「そりゃ、色々だよ。好きなドラマの話とか、ゲームの話とか」
「ふうん、そっか。じゃあ、何話そうか」
何話そうかって、俺と晴子の共通項が分からない。俺はあんまり女子と親しく話したことないし、主なネタといえばバトマスしかない。晴子はきっと、ゲームセンターに行ったこともなさそうだから、バトマスの嵌め技の難しさなんて話しても面白くないだろう。いやまあ、うん、などと適当に唸っていると、晴子は黙った。それから俺たちは懐中電灯を手にただひたすら歩いている状態だった。無言の行軍、そんな感じ。
満足に会話のないまま、展望公園に着いた。娯楽のない町だから、暇を持て余している大人が多いのだろう。駐車場には何台も車やバイ
クが停まっていて、展望台の方は賑わっていた。俺たちも展望台に向かうのだろうと思っていたら、晴子はそれを無視して、さらに上に行くべく小道を進みだした。
「どこ行くんだよ」
いくら夜の気温が下がるといっても、八月だ。俺はすっかり汗だくで、持って来たペットボトルも空になりかけている。晴子の息も上がっていて、肩で息をしていた。
「ここじゃないの? 晴子」
「この上にね、穴場があるの。あたし、よく来るんだ」
晴子は呼吸を荒げているくせに、行先の分かっていない俺より、生き生きしていた。
細い道は足元が悪く、懐中電灯を照らしてゆっくり歩かなければならない。それが余計に疲労となって、ヒイヒイ呻きながら十分ほど登ると、急に景色が開けた。
「ついたよ」
そこは短い草が絨毯のように茂った野原だった。空が近い。星が鮮やか。景色は展望台よりも遠くまで見はるかすことができた。
「うっお。何ここ、すげえ!」
思わず声を上げる。生まれたときからこの町に住んでいるくせに、展望公園には何度となく来ているのに、こんな場所があるなんて知らなかった。
「啓太くん、お疲れさま。こっちに座ろう」
晴子はリュックサックからレジャーシートを出して、手慣れたように敷いた。リュックからは、アルミホイルで包まれたでかいおにぎり二個と大きな水筒、紙コップも出てきた。
「晴子、こんなの背負って来てたの」
「うん。ほら、おにぎりどうぞ」
正直腹が減っていたので、嬉しかった。晴子と並んで座り、眼下に広がる景色を見ながらおにぎりを頬張る。塩が効いたおにぎりはまだほんのりと温かくて、中には甘い煎り卵が入っていた。旨い。
「ありがと、晴子。なんかこれってすごい贅沢だな」
目を奪われる景色を独り占めしながら旨いご飯を食べることが、こんなにも満足感を与えてくれるなんて思わなかった。
「それに、煎り卵のおにぎりなんて、初めて食べた。これ、好きだ」
「よかった」
晴子の声が嬉しそうに跳ねる。あのね、この場所も、おにぎりも、
おばあちゃんが教えてくれたんだよ。ここからの夜空が一番、星に近いってことも。
「……なあ、烈子ばあちゃん、どうしたんだよ」
もういい加減、教えてくれてもいいだろ? 訊くと、晴子は小さくぽとりと言葉を落とした。
「施設に、いる」
「施設って、なに」
「……認知症なの。一年くらい前から少しずつ様子が変わっていってたの。どんどん酷くなってきて、お父さんがとうとう、施設に入れち
ゃった」
大きな口を開けて、晴子はおにぎりを頬張る。ほっぺたをリスみたいに膨らませて咀嚼をする晴子の目じりが少し光った。俺はそれを見ないふりをして、おにぎりを齧る。
ゆっくりと飲み込んだ晴子が、続ける。
「中々入ることのできない、すごく人気のある施設なんだって。死ぬまで大切に看てくれるって。そんなところにすんなり入れておばあちゃんは運がいいって、お父さん言ってた」
言葉が出てこない。晴子と並んで帰っていた広い背中を思い出す。
大きな手はいつも、晴子の小さな手を握っていた。
「烈子ばあちゃんがいなくなったから、晴子は変わろうとしたの?」
少しの間があって、晴子が頷く。
「なかなか、うまくいかないね。ひとと付き合うのも、ひとに言いかえすのも全然加減が分からない。初めての世界は、あたしには厳しすぎる」
「初めてって?」
晴子は右手で目の前を指差した。小さな光の粒をたくさん零したような景色が広がっている。こうして見ると、思っていたよりも町は栄
えているのかもしれないと思う。
「暗くてよく分からないかもしれないけど、この町って、すり鉢みたいな形をしてるんだ。向こうの山と、いまあたしたちのいるこっちの山が緩やかに繋がっていて、その中にあるの。あの辺りの光の集合体は、すり鉢の底かな」
晴子の喋り方は、耳に優しい。雑音なく伝わる。うん、と頷いた。何となくイメージが湧く。
「おばあちゃんはね、ここは少し大きな水槽なんだよって言ったの。この町は水槽だって」
頭の中のすり鉢が、自分の家の玄関に置かれた金魚鉢にすり替わった。金魚鉢の底には色とりどりのビー玉が沈んでいる。あの幾つもの光はビー玉の輝きなのだと思えてくる。
「そしておばあちゃんは、私は晴子のチョコレートグラミーになってあげるからねって言ったの」
「マウスブルーダーって、こと?」
晴子が目をぱちくりさせた。俺が知っているとは思わなかったらしい。あれから調べたんだ。どこが晴子と似てるのかなって思って。親が口の中で稚魚を育てて外敵から守る魚だって、ウィキペディアに書
いてた。そう言うと、そういうところが頭がよくなる理由なのかなと感心したように晴子は頷く。
「俺、あのとき晴子は卵から孵ったんだと思ってた。でも、ちょっと違った。晴子はずっと、烈子ばあちゃんの口の中にいたんだな」
晴子が、笑う。頬に優しい窪みができる。
「おばあちゃんが、この世界からあたしを守ってくれてた。あたしを捨てたお母さんから、騒ぎを馬鹿にする世間から、全部から」
晴子が夜空を見上げる。それから、まるで昔話をするような口調でそうっと続けた。
「この水槽の中で哀しい思いをしないように、辛い思いをしないように、私が守ってあげる。焦らなくっていいんだよ。あんたのペースでいい。いつか自分で旅立てると思えるその日まで、私の中にいたらいいんだよ」
ああこれはきっと、烈子さんの言葉だ。烈子さんは何度となく、晴子に言って聞かせたんだろう。俺の知っている烈子さんの口調じゃないけれど、そう思った。
そして同時に、子どもを怒鳴り散らしていた烈子さんを思い出す。晴子を泣かせる奴はこの私が容赦しないからね! 絶対に、いじめる
んじゃないよ!
「おばあちゃん、認知症になったいまも、あたしを守ってくれてるんだよ。晴子は渡さない、晴子を殺そうとしたあんたは死んでも許さないってあたしに向かって怒鳴って、暴れるの。あたしはお母さんじゃなくて晴子だって何度言っても、分かんないんだよ。呆れちゃう」
晴子の声が少しだけ潤む。
「おばあちゃんの愛情って、『普通』とは少し違うんだろうね。ひとから悪く言われる部分もあるんだと思う。でも、あたしはその愛情のお蔭で幸せに生きて来られた。誰にどう言われても、あたしはそれに
感謝したい」
泣きそうな晴子に引きずられたせいなのか、それとも別のひとの面影がよぎったせいなのか、鼻の奥がツンと痛む。同時に喉の奥からこみ上げてきた熱いものを押し込めるために、おにぎりの残りを全部口に押し込んだ。げほげほと噎せ返ると、晴子がすぐに紙コップを差し出してくれる。
「ご、ごめん。ありがと」
苦しさのせいで、涙目になる。晴子は、美味しそうに食べてくれて嬉しいよ、とおどけたように言った。
一息ついた後、ふたりで寝ころんだ。星が幾つも煌めいていて、その中に夏の大三角形を見つける。晴子に教えると、教科書通りだねと指先で星を辿った。
それからしばらく無言で眺めていると、晴子がそろりと喋りはじめた。あたしはこれから、おばあちゃんの口の中から出て、ちゃんと生きていく。だけどさ、啓太くん。難しいね。生きていくって、難しいよ。
ああ、難しいよな。俺も、難しいって思う。しんどいって時々思うし、ムカつくこともある。世の中って、どんどん難しくなっていって
る気がする。でもそれが晴子の言う、世界に出るってことなんだろうな。
ああ、そっか。そういうことだよね。さすが、啓太くんはこの世界でちゃんと泳いでるだけあるね。
どうだろうな。ちゃんと、ではないと思うよ。
そんなことないよ。あたしには、啓太くんがとても眩しいよ。そんな啓太くんが辛くても泳いでいるんだったら、あたしも泳がなくちゃいけないって思うもの。
ゆっくりと紡がれる晴子の声が、俺の声が、こぽりこぽりと気泡の
ように夜空に溶け込んでゆく。だんだんと、自分が水槽の中で揺蕩う魚になった錯覚に陥る。ビー玉や水草の間で揺らぎながら、生まれては消える水泡を眺めている、そんな感じ。
「この水槽の向こうにはもっとたくさんの水槽があるんだよね。水槽どころか、池も川も、海だってある。いちいち怖がってたら、生きていけない。あたしたちはこの広い世界を泳がなきゃいけない」
こぽこぽ。こぽこぽ。柔らかな音の向こうに、縞模様の入った栗色の魚が泳ぎ始める。魚は星屑の散らばる夜空を旋回し、星の描く三角形を潜っていった。ゆっくり、ゆっくりと。
しばらく空を眺めて、俺たちは山を下りた。帰り道はとても早く感じた。それは、晴子が俺のゲーム話を興味深そうに聴いてくれたからかもしれない。晴子もやってみろよ。なんなら俺が操作教えてやるし、と言うと、機会があったらぜひ、と笑った。
晴子の家の前に着き、自転車に跨る。
「じゃあ、帰るよ。晴子も早く家に入ったほうが……って、晴子の家、もしかして誰もいないの?」
何気なく見た近松家には、どの窓にも明かりが灯っていなかった。中学生の娘が外出しているままだというのに、灯りを消して寝ている
というのは考え辛かった。
「何で?」
晴子に視線を戻して訊けば、晴子は肩を竦めた。
「うちのお父さん、今日は帰って来ないの。隣の県に住んでる桜子おばちゃんっていう、おばあちゃんの妹のところに行ってるから」
「どういうこと」
「あたしを育てられないって、引き取り先を探してるの」
頭の中が真っ白になった。育てられない? 引き取り先?
阿呆みたいに口を開けた俺に、晴子は続ける。お父さんの妹とか、
子どものいない親戚にまで話をしに行ったんだ。でもみんな、なかなか受け入れてくれなくて、それで今日はおばちゃんのところまで。
「な、なんで……?」
どうしてそうなるのか分からない。烈子さんがいなくなったからって、何だっていうんだ。父と子、ふたりで生きていけばいいんじゃないのか。俺の家はそうだ。母と子ふたりで暮らしているんだから。
「啓太くんのお母さんと、うちのお父さんは違うんだよ。お父さんね、もうずっと前から恋人がいるの。バツイチで、子どもはいないみたい。そのひとと再婚したいって何度も言ったんだけど、おばあちゃ
んが許さなかった。家まで連れて来たこともあったんだけど、晴子のことを考えろって言って追い出しちゃって」
「で、でもこうなったら、烈子ばあちゃんも反対しないよ。再婚でも何でもして、晴子も一緒に暮らせばいいじゃないか」
「向こうが、嫌がってるんだって。おばあちゃんの育てた子とはきっと仲良くできませんって。酷いよねえ。それを受け入れちゃう、あたしのお父さん」
へへ、と晴子が笑って、すぐにそれを引っ込めた。
「お父さんの話だと、おばちゃんは身寄りがないから喜んでくれてる
みたいだって。多分、あたしはこの町を出ることになる」
急すぎる。っていうか、どうしてこんなことになるんだ。
「それ、そんなの、いいのかよ」
「おばちゃん、昔から可愛がってくれたの。旦那さんに先立たれて独り暮らしだし、まだ元気だし。あたしが高校を卒業するまでの五年くらいは、面倒見てくれるんじゃないかな。お父さんも、金銭的な苦労はさせないって言ってた」
「そんな問題じゃない! それで晴子は、行くのかよ!」
思わず声が大きくなる。晴子はゆっくりと頷いた。
「おばあちゃんはもう助けてくれない。お父さんはあたしと暮らすのは無理だって言う。それならあたしは、どこでも泳いでいく覚悟をしなくちゃいけないじゃない。だから」
晴子が、俺の腕を掴んだ。痛いくらい強くて、その強さに驚く。
「ねえ、啓太くん。あのとき言ったよね。よくやったって。あたし、ちゃんとやっていけるよね⁉」
田岡を殴る晴子の手を止めたとき、俺は確かに言った。もういい、晴子はよくやったって。
それは、自分に抱きついて泣き出す孫に、烈子さんがよく口にした
言葉だった。よくここまで頑張った。晴子、よくやったね。みんなのいる校門で、大きな声で彼女はいつもそう言っていた。
「言ったよ。だって、俺は昔の弱かった晴子を知ってたから」
だから、烈子さんがいたら絶対に口にしたであろうことを言った。
「いまは、あのときの晴子が死にもの狂いで外に飛び出したんだってことも知ってる。自分一人で生きていく為の、一歩だったことも」
晴子の手があの日のように震えている。その手を解いて、ぎゅっと握り返す。
「あのときから、晴子はちゃんと泳げてる。俺がびっくりして笑える
くらい、強くなった。だけど、本当に行くの? 晴子は、それでいいの?」
繋いだ晴子の手は小さくて、頼りない。俺がもっと力を込めたら潰れてしまいそうだった。けれど、俺以上の力で握り返してくる。
「嫌だよ。怖いよ。でも、あたしは考え方を変えるの。啓太くんがここを離れても生きていく覚悟を持って泳いでいるのを見たら、あたしもやれるはずだって思ったの。あたしだって、できる。泳いでいける」
「……でも。でも、晴子は、ひとりじゃないか」
俺には、さっちゃんがいる。でも、晴子には。
晴子の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。それを拭わないまま、晴子は俺に言う。
だからね、啓太くん。お願いだから、もう一度あたしを褒めて。よくやったって、褒めて。そうしたらあたし、頑張れると思う。ひとりでも、頑張れると思うから――。
家に帰ると、さっちゃんが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
ぎこちなく挨拶を交わしたあと、ちゃんと話そうよ、とさっちゃんが言う。うん、と頷いた俺の視界の隅には、靴箱の上に置かれた金魚鉢があった。小さなメダカは、ゆったりと泳いでいる。
「出がけにも言ったけどさ、大阪に行きたいなら、行こうよ。俺、ついて行くから」
さっちゃんが口を開くより先に発する。俺じゃ頼りないかもしれないけど、支えられるようになる。だから、もっと頼って。俺たち、親
子じゃん。支え合いたいじゃん。
「啓太……」
一瞬くっと息を飲んださっちゃんは、静かに俺を抱きしめた。柔らかで懐かしい温もりに包まれる。こんなことされるの、いつぶりだろう。でも昔と違ってもう、さっちゃんとの身長差はほとんどなくて、何だか小さく感じた。
「ありがと、ごめん。ごめんなさい、ありがとう」
さっちゃんの声が濡れる。頼りないなんて考えたこともなかったよ。啓太がしっかりしてるから、ずっと甘えちゃってたの。啓太なら
きっと許してくれるって思っちゃったの。こんな母親でごめんなさい。許してくれてありがとう。
その言葉に、胸が温かくなる。微かに震える背中を、ポンポンと叩いた。
「さっちゃんはさっちゃんだから、それでいいよ。まあ、でもさ、オヤジが見つからないときは、諦めてよね」
「ううん。私、ここで生きていくって決めたの」
さっちゃんは首を横に振る。
「この数ヶ月、啓太のお父さんと三人で暮らす夢を見てた。それはこ
こじゃきっと叶わなくて、でもここを出たって叶わない夢だったの」
「だからさー、叶うか叶わないかなんて、分かんないじゃん。行ってみれば?」
わざと、明るい声を出す。いまの俺ならどこでだってやれる、そんな自信がある。
だけど俺の肩口に顔を埋めたまま、さっちゃんはまたも首を振る。
私がここ以外では生きていけないって知ってるから、りゅうちゃんは私を連れて行ってくれなかったの。ここは、私が生きていける唯一の場所なの。そんなことずっと前から分かってたのに、私は馬鹿だか
ら、もしかしたら頑張れるんじゃないかって思ってしまった。啓太を苦しめているのが分かってたのに、それでも夢見てしまったの。
そうか、俺のオヤジはりゅうちゃんっていうのか。ぼんやりと思う。
それから、さっちゃんの言葉を反芻する。
生きるとか生きていけないとか、大人でも考えて苦しむものなんだ。だったら俺や晴子が苦しいと思うのは当たり前なんだ。大人が苦しみながら泳いでいるのだとしたら、それはとても厳しい現実だと思うけど、でもそういうものであるなら、仕方ないよな。これからも、
もがきながら泳いでいくしかない。
「啓太、いままでごめん。改めて、ここで生きていこう」
さっちゃんの声には、もう迷いはないようだった。
「それで、いいの? 後悔しても遅いし、後からの変更は受け付けないけど」
安心させるように冗談めかすと、さっちゃんはこっくりと頷く。それから続けた。実はね、りゅうちゃんにはここで待ってるって言っちゃってたのよ。
何だよそれ。くすりと笑うと、さっちゃんも小さく笑った。
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盆が過ぎた、ある日の夕暮れ。配達中に雨が降り出した。通り雨らしく、空の向こう側には青空と入道雲が広がったままだ。
カゴに入れた新聞にカバーを掛け、潰れたパン屋の軒下に避難する。
「ああくそ、早く止めよ」
まさか雨が降るとは思っていなかったので、雨具は持って来ていない。タオルで頭を拭きながら、空を見上げる。
「早く止まな、いかな」
目の前を一台の軽トラックが通り過ぎた。何気なく見やって、息を飲む。荷台に、見覚えのある大きな水槽が積み込まれていた。中身をすっかり空にしたそれは、灰霞色の向こうに瞬く間に消えていく。
ああ、行ったんだな、と思った。
あの晩ふたりで見上げた夜空を思い出した。夏の大三角形を舞うチョコレートグラミー。祖母の口から飛び出した小さな魚はこの水槽まで飛び出していま、広い世界に泳いでいった。
「よくやった。頑張った」
小さく、声に出す。俺の言葉がいつまで背中を押せるかは分からない。だけど少しでも長く、寄り添えますように。
「頑張れ」
そして初めての世界があの魚(こ)にとって優しいものでありますように。生きやすい場所になりますように。センチメンタルな願いをそっと胸の中で呟いて、軒下から駆け出した。
雨が止む。
